ABOUT US

1982早稲田小劇場入団
1988劇団第三エロチカ入団
2001ZORAを劇団第三エロチカ吉村、坂本で活動。
2015吉村他界。
2019ZORAを閉じる。
2021「プロジェクト榮」を、演出:俳優/篠本賢一、
舞踊家:俳優/花柳妙千鶴と活動開始。
2023「よなよな」久保庭尚子と立ち上げ。

2011年5月28日土曜日

切腹(サカモト)




「切腹」という映画を見た。深夜帰宅し、疲れて果ててはいたものの見たくてしょうがなかったのだ。おかげでその日は、血みどろの悪夢にうなされ目覚めた。

ひとつの白黒の絵葉書。それは切腹する直前の浪人の姿だった。役者は仲代達矢。その当時、短命に終わった鎌倉シネマワールドにデートに行き、彼氏が買い、その絵葉書がずっと私の家に残ってた。あれからもう既に、ものすごい時が流れているというのに、なぜか捨てられず、家の片隅にいた。

昭和37年の作品であるし、三国連太郎、丹波哲郎、岩下志麻ら大御所が出演。見た方もさぞ多いであろう。しかし、凄い。そして思った。人はいつから自分の言葉に責任を負わなくなったのだろう。この頃、たまにあれっと思うことがよくある、あなたあの時ああ言ってたよね…?でも忘れたふりをする。人を責めてはいけないというフィルターが、咄嗟に私を覆う。でも私はまだ認知症ではない。ちゃんと覚えている。

現代はスライド的に流れ、ひとつのことにこだわっている方が、鈍臭くみえるのかもしれない。そして思う、私だって欠点の塊だ、人のいいところだけをみよう。でもそれもなんだか違う気がしながら、自分は前へ進むしかないと結論する。死んだらおしまいじゃんと言わんばかりに、物事をスライドし続ける輩は、スライドが当然の如くになってしまい、何の決断もできなくなってしまうのかもしれない。死ぬことを覚悟で、乗り込む一匹狼、仲代達矢扮する一介の浪人は、しかと自分の言葉を喋る。女々しい影を一筋も残さず、凛としている。私もしっかりと、自分の言葉で喋る人間に近づきたいものだ。

2011年5月22日日曜日

どん底(ヨシムラ)

なんだかさえない日々である。

ここ数年は、両親を見送り離婚し自活しながら芝居も続け、穏やかだった暮らしが否応なく動きだし、のんびりと生きてきた人生の中では、割と必死な数年であったと思う。身辺は寂しくなったがきっぱりと一人で生きているような清々しさもあった。

昨年末の芝居を終えひとくぎりしたときは、次のことを考えていた。芝居を続けていく困難さは気合いとアイデアで乗り越えてきたし、いつもわたしたちのできる最良のことをめざしている。しかしときに途方もなく思えることもある。

震災の光景、そして小さな「なんだかうまくいかないこと」が、心身を脅かした。なにかことを起こそうとすると耳元に「トカトントン」が聞こえてくる。

先日サカモトと話した折、「やる気がでない」と口にしてしまったとき、言ったら本当になってしまう、言わなきゃよかったと思ったが、そんなときもある、と受け止めてくれた。叱咤激励されるよりも心強かった。

さて今日は重い腰をあげて…


THE・ガジラの『どん底』を観に行った。記憶にある「どん底」は暗い芝居だ。今この芝居はきついのではないかと覚悟して観た。2時間10分は確かにきつい。しかし魂が揺さぶられる作品になかなか出会えないなか、100年前のロシアでゴーリキーが吐き出すように書いた野太い言葉と、真摯な演出、そして出演者たちの覚悟に心が動いた。心の闇に沁みた。ドストエフスキー、チェーホフの言葉にもまた触れてみたくなった。

てなわけで外に出れば 人にも出会うし雨にも濡れる。
どん底にはまだはやい。

2011年5月15日日曜日

キッシング・グラミー(サカモト)



キム・ジウン監督の映画『悪魔を見た』が、スペインのビルバオ国際ファンタスティック映画祭で大賞を受賞したそうだ。その映画祭のことは詳しくはないけれど、やはり賞を獲得したかと思った。肝に伝わる作品にはオーラがあって、そんな未来が待ち構えていることが、なんとなくわかるのである。

昨夜は、久しぶりに韓国映画「シュリ」を観た。何年かぶりに同じ映画を見ると、見落としていた部分と、時を経ても確実に覚えている絵があって、その覚えている絵がとてもシンプルでさりげないシーンであったりして、自分でへーなんて頷いたりしている。すっかり忘れていたのは、熱帯キッシング・グラミーオス同士が出会うと口で押し合う闘争行動をおこなうが、これを傍から見るとキスをしているように見えるためキッシングの名がついているという。「シュリ」の恋人同士の会話から、「つがいでいないと生きていけない、片方が死ぬともう片方の体調が急激に悪くなり死んでしまう」という場面がある。実際のキッシング・グラミーはそうではないらしいが、その会話を聞いてハッとした。

二人でひとつであるという感覚。まさにジャン・ジュネ「女中たち」の姉妹もそうなのだ。結局は、お互いが自立できぬままなのだ。その関係性の中で生き、年老いていく。年というものは不思議であって重ねれば器量のあるものになるわけではなく、かえってややこしくなる場合もある。


戯曲の読み方が、一方向からの解釈でしかなかったものが、時を置いて違う角度から見られたとき、心が洗われる。人間に対する興味、人間というもの。そして現在進行形で生き続ける自分という人間が読む。実は、自分という人間の器量も問われているのだ。

2011年5月8日日曜日

『田紳有楽』- ZORA近況 -(ヨシムラ)

昨年末の公演から、ほぼ半年経ってしまった。その間、サカモトは2度、渡韓し、芝居三昧の日々。わたしは温泉に浸かったり登山をしたり、もちろん仕事もしていたが、芝居にまつわることから離れ茫洋としていた。

ご近所の猫 近影

黄金週間も終盤、そろそろZORAのこと。ZORAは、一年に一回、秋冬に公演をしている。一つ公演を終え、次の準備に入る。今年は諸事情あり出遅れていたが、「えいやっ」と腰を上げた。作品を探す。これは旅の準備をするような、楽しい作業だ。

藤枝静男という作家がいた。太宰治よりひとつ年上。眼科医をしながら、病妻や夭折した兄弟を題材に作品を書いていたが、70歳近くになって『田紳有楽(でんしんゆうらく)』という傑作を生み出した。初夏の庭の様子が俯瞰で語られる冒頭から、庭の池に投げこまれた茶碗(グイ呑み)が心情を語りいつしか自力で動きだし、金魚のC子と交情をかわす。想像を超えた飛躍と人間臭さが同居している。ぶっ飛んでいて、とぼけている。

藤枝静男氏

荒唐無稽でありながら人間から離れず、有機も無機も同じ眼差しでとらえる感覚は新鮮で圧倒的におもしろい。藤枝静男、いい。

戯曲ではないが、この小説、あるいはこの世界観をZORAの解釈とアイデアで作品に起こしたいという思いが沸き、ふたりで声に出して読むうちに、おもしろさを確信している。このような作業を積み重ねてゆき、いつになるかわからないが、どいうふうにか、かたちにしたいと目論んでいる。