ABOUT US

1982早稲田小劇場入団
1988劇団第三エロチカ入団
2001ZORAを劇団第三エロチカ吉村、坂本で活動。
2015吉村他界。
2019ZORAを閉じる。
2021「プロジェクト榮」を、演出:俳優/篠本賢一、
舞踊家:俳優/花柳妙千鶴と活動開始。
2023「よなよな」久保庭尚子と立ち上げ。

2014年7月27日日曜日

ポケットの中の握り拳(ヨシムラ)

不安定な体に、梅雨明けの容赦ない暑さが襲いかかる。高湿の外気は重く、なにもかも嫌になりそうな夏。この不安と苛立ちと気候を持て余して弱々しく拳を握りしめている。加齢による容姿の変化は徐々に慣らしてゆけるものだが、今のこの変化は。主観的には絶望し、客観的にはおもしろがりながら、この先なにかの役に立つなら立てと弱々しく拳を握りしめている。

マルコ・ベロッキオ特集


どこかでこのチラシを見て、この映画も監督も知らなかったけれど、ただこのチラシに惹かれて、イメージフォーラムへ。


あまりにも衝撃的。この衝撃を誰かと共有したくもあり、誰にも言いたくない気分でもあり。1965年、ベロッキオ監督のデビュー作。残忍で斬新、意表をつく演出。崩壊してゆく家族を淡々とかつ鮮烈に描き、ぞくぞくする狂気と、疾走していく爽快さもあり。今の苛立ちと太陽の季節に、このイタリア映画はまさにツボだったのである。

朝顔 その3

停滞している世界で、ただこの生物だけが刻々と成長し続けている、恐るべし。




2014年7月19日土曜日

梅雨明け(サカモト)


昔は雨音だけを耳にしていた一日もあった。明るさなど微塵もない灰色の空。そんな日はろくでもない妄想と想像力に満たされ、だけどなぜか心は落ち着いていた。夢の中で大泣きをしている日もあった。そして目が覚めると、不思議に浄化されている。

二十歳前、何がしたくてわからなくうつ病になりかけていた時、ずっと蒲団にもぐっていたら、母が蒲団にまたがり、蒲団を剥ぎ、「働いてこい」と怒鳴った。母はもう覚えてもいないだろうけど。一人の世界にいる時は安泰だが、他人と世間と関われば問題は起き、けれどこれまでにない幸せも運んできてくれる。


宿命という映画を久しぶりに又観ました。はじめて観たときより感動してしまいました。GRAYの主題歌もよかったです。何しろ俳優が身体を使っています。スタントなしでしょうね。青春のきらめきは渦中にいるときは気づかないけれど、それにすがってしまう成長できない友。そんな中でウミンを演じたソン・スンホンは先見の明を持ちながら友を助けようとしますが、最後にその友に殺されてしまいます。「仲間はやるな・・」と言った彼が仲間に。その彼の深い愛が哀しい。

批評を読みましたら酷評もありましたけど、自分にとっての今の映画、絵画があります。きっと私にとって韓国の映画を見たくなるときは、抜け出せない体制の中で、必死にもがき苦しみながらも自分流の筋の通し方で生き抜く力強いエネルギーを感じたくなるのかもしれません。飢えはやはり創造的にならざるをえないし、その孤独さは誰にもわかってもらえない。ひとつ元気をもらいました。不安と未来を胸に、私も頑張ります!

「恋のBAILABAILA」クリックしてみてください!

撮影:吉村

2014年7月14日月曜日

ひまわり(ヨシムラ)

暑中お見舞い申し上げます。

つつがなく日々が過ぎれば物足りなく、波乱があれば、うろたえる。
ひとやすみ。振り返るには早いけど、ひとやすみして、ひといき。
本当はひとやすみも飽きた。

炎暑、集団的自衛権、原発、わたしたちをとりまく環境、戦争が終わって67年めの夏。
暑さの中の思考と、同時に起きている体内の異物との闘い。まさに現在。夏。

寝苦しい夜、窓を開けて、星も見えないけれど。
失うばかりではないこれからの、ここからの、ここから先の。


美しい旋律とともに、観るたびに切ない「ひまわり」

体にこたえる暑さが続きます。
水分補給を忘れず、健やかにお過ごしください。




2014年7月6日日曜日

月と六ペンス(ヨシムラ)


前回の動画はいかがでしたでしょうか?被写体のインパクトもさることながら、スマホ動画撮影のおもしろさに目覚め、久々に新しいものを作り出す現場の空気を吸ったひとときでした。そして少し前に読んだ本の衝撃が再び心に甦りました。

2014年出版、名作新訳コレクションより、金原瑞人の訳による「月と六ペンス」

約100年前に書かれた、サマセット・モームの小説。画家のポール・ゴーギャンをモデルに、仕事も妻子も捨て単身フランスへ出奔した主人公が、絵を描くために自分だけでなく他人をも犠牲にし、果ては南方タヒチで芸術の神に魂を捧げ、最後の大作を仕上げ、壮絶な死を遂げるまでを描いています。身のうちから湧きあがるもの、叫び、誰かのためではなく、自分のためですらない、ただ、描かずには生きられない、本能。芸術表現から遠のいた生活を送っている今、バチンの頰を打たれたような驚きと痛みを感じました。

ゴーギャンがタヒチで描いた
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』

同じ本を何十年も前に読んだときと全く違う、新しい小説を読み終えたような感じがし、自分が変わったことももちろんありますが、翻訳が違うと印象が全く違うということに気づきました。今回読んだのは新訳版です。身近にいたら強烈過ぎてとても愛せない主人公を、神が地上に落とした天才芸術家として、生き生きと、ひりひりと、繊細で鮮やかな日本語で描き、死後に名声を得た画家の生涯をとても魅力的に表しています。私たちが何度も読んだアゴタ・クリストフの作品も、アゴタ・クリストフの言葉と、思いを込めて訳した、堀茂樹さんの言葉、ふたりの表現によって、日本人の私たちの心にきざまれているのだと思いました。


朝顔ふたつ咲きました。だんだんとツルが伸びてから花が咲くのだと思っていましたが、いきなり咲きました。朝顔は朝咲き、夕方まえには萎んでしまいます。ひとつの花の命は数時間、ということを改めて感じ、見逃すまいと観察を続ける日々です。

なにもしていないと思っていても。
たとえば、治療で髪が抜けた姿を鏡で見て、収容所に収監された人の役ができるのではないかとふと思い、にやついてしまうとき、表現者のささやかな芽が出ているのかもしれません。