前回の動画はいかがでしたでしょうか?被写体のインパクトもさることながら、スマホ動画撮影のおもしろさに目覚め、久々に新しいものを作り出す現場の空気を吸ったひとときでした。そして少し前に読んだ本の衝撃が再び心に甦りました。
2014年出版、名作新訳コレクションより、金原瑞人の訳による「月と六ペンス」
約100年前に書かれた、サマセット・モームの小説。画家のポール・ゴーギャンをモデルに、仕事も妻子も捨て単身フランスへ出奔した主人公が、絵を描くために自分だけでなく他人をも犠牲にし、果ては南方タヒチで芸術の神に魂を捧げ、最後の大作を仕上げ、壮絶な死を遂げるまでを描いています。身のうちから湧きあがるもの、叫び、誰かのためではなく、自分のためですらない、ただ、描かずには生きられない、本能。芸術表現から遠のいた生活を送っている今、バチンの頰を打たれたような驚きと痛みを感じました。
ゴーギャンがタヒチで描いた
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
同じ本を何十年も前に読んだときと全く違う、新しい小説を読み終えたような感じがし、自分が変わったことももちろんありますが、翻訳が違うと印象が全く違うということに気づきました。今回読んだのは新訳版です。身近にいたら強烈過ぎてとても愛せない主人公を、神が地上に落とした天才芸術家として、生き生きと、ひりひりと、繊細で鮮やかな日本語で描き、死後に名声を得た画家の生涯をとても魅力的に表しています。私たちが何度も読んだアゴタ・クリストフの作品も、アゴタ・クリストフの言葉と、思いを込めて訳した、堀茂樹さんの言葉、ふたりの表現によって、日本人の私たちの心にきざまれているのだと思いました。
朝顔ふたつ咲きました。だんだんとツルが伸びてから花が咲くのだと思っていましたが、いきなり咲きました。朝顔は朝咲き、夕方まえには萎んでしまいます。ひとつの花の命は数時間、ということを改めて感じ、見逃すまいと観察を続ける日々です。
なにもしていないと思っていても。
たとえば、治療で髪が抜けた姿を鏡で見て、収容所に収監された人の役ができるのではないかとふと思い、にやついてしまうとき、表現者のささやかな芽が出ているのかもしれません。